2016 年 6 月 21 日 少年時代の夏

 

PR39代表の林です。

 

梅雨の中休みで6月19日は福岡でも30度を超す猛暑日です。

庭のゴーヤやナス、トマトなど強い日差しに

葉はぐったり、しだれています。

大きく実った初物のナスは

「自慢の手料理」でフライパン炒めて

美味しく頂きました。

 

 

1ナス

 

 

いや本当においしかったです。

やっぱり愛情がこもっています。

土は福智山の腐葉土をいちいち運んできて

プランターに入れリン、鶏糞、石灰などを混ぜ

懇切丁寧に土づくりをしました。

 

美味しく食べられたのは汗水たらした結果ではないでしょか?

「棚からボタ餅」はあり得ません。

これこそ「農業の法則」ではないでしょうか。

「農業の法則」いつかの機会に言わせてもらいます。

はなはだテーマとは程遠い話しになりました。

本題に入りたいと思います。

 

私は少年時代から野山で遊ぶ事が大好きでした。

現在のように物が溢れ

日本では年間800万トン程の残飯が

破棄される時代とは全く縁のない時代でした。

 

今の子供のようにオモチャや

色んなゲーム機などは縁のない時代でした。

遊びは近所の「ガキども」と一緒に

かくれんぼ、缶けり、馬乗り

神社の裏山の大木になわでベッド造り

やぶの中には隠れ家造り

竹では竹トンボ、竹馬を手作りでつくり

ささ竹でクス鉄砲

田んぼの水路でフナやドジョウ、タガメを取り

自然がすべて遊び相手であり手段でした。

 

近所の「ガキども」と一緒に「キャンプ」へ行ったり。

キャンプといっても今のように

テントやガスコンロなど

キャンプ道具は何もない。

 

もって行く物は蚊帳、ござ、飯ごう、鍋、箸、スプーン

食べ物は米、塩、醤油、サバやイワシの缶詰

マッチ、ナイフなど

必要最小限度の荷物だけ。

 

中学生5~6人だけでキャンプに行く。

大人は誰もついてこない。

今では考えられない。

朝5時ごろ出発し2時間歩いて「キャンプ地」に到着

 

その当時キャンプ場なんかはない。

その道のりは田んぼや畑、山の峠越え

道の両側にはトマト、マクワウリ、スイカ、キュウリなど

新鮮な野菜が朝のしずくを光らしながらたわわに実っています。

おかずはそこで少々「失敬」し調達。

 

荷物は麻袋や風呂敷などにいれ

たけの棒で差して担いで行く。

峠を越えるときその重さが

「ガキども」の肩にもずっしりと圧し掛かる。

 

キャンプ地は千石峡。

今はキャンプ地として綺麗に整備され

オートキャンプ、テント、バンガローなど

色んなキャンプが出来ます。

 

 

1 2 3

 

 

キャンプ地につくと

私よりひとつ上のガキ大将が指示をする。

だれ誰がござを敷き、蚊帳を吊る

食事の準備はだれがする

などと分担をする。

 

綺麗な渓谷の冷たい川に飛び込んで

泳いで遊ぶ。

お腹がすけばすぐ飯ごうで飯を炊き

食事の時間など決まっていません。

食べ物がなくなればその時点で

キャンプは終了。

 

夜はカンテラをさげキャンプ地から

さらに上流の渓流へ登りながら

アユや川ガニなどを取る。

魚は夜、明かりを照らすと集まり

あまり動きません。

浅瀬では手づかみで取れます。

 

取り立てのアユは串にさし

たき火の周りで塩焼きにし

川ガニは鍋で塩を少々いれゆでて食べる。

新鮮な素材と塩だけのシンプルな料理でしたが

あのうまさは半世紀をたった今も忘れません。

 

  • カンテラとは炭鉱の坑内で明かりとして使った照明道具、

カーバイトに水を加えてそこから出てくる

ガスに火をつけその燃焼でてらす仕組み

 

追伸

私の少年時代はキャンプ場の上流にダムはありませんでした。

千石峡上流にダムが建立された時は高校時代でした。

ダムが出来た以後アユは絶滅し生体が大きく変わりました。

その時の透き通った水はもう今はありません。

地球環境、自然破壊は日本を留まらず

地球規模に拡大しています。

自然を守り人間が自然と共生するのは

自分自身と後世の豊かな未来を約束する事ではないでしょうか?